伊能忠敬旧宅と記念館
茨城
香取神宮の後はお昼ご飯を食べに佐原へ。
香取神宮から佐原の市街地までは約3.5km、車で10分ぐらい。
お目当てのお店は1時間ほど待ちそうだったので、
待っている間に景観エリアを散策してみました。

ちょうどひな祭りの時期だったので、川岸にひな人形が飾られていました。

こちらはその小野川沿いにある『伊能忠敬旧宅』
前に来た時は改修中で見学できなかったので行ってみました。
ワンともは初めてですが、ダンナ・ピットは子供の頃に一度来たことがあるそうです。

正門の横にあるのがかつての店舗部分です。
伊能家は醸造業などを営んでいた資産家だったそうです。

店舗部分は土蔵造り。
正門と店舗は伊能忠敬が婿に入る前からあるそうなので、
建ててから200年以上は経っているようです。
お雛様は昭和40年代頃のもので香取市内の方からの寄贈だそう。

こちらは炊事場。
なぜか御用旗と象現儀が。

書院。
画像を撮り忘れましたが、これらに土蔵を加えた部分が
国定史跡になっています。

書院の向かい側にある伊能忠敬像と「測量の日」の碑。

旧宅前の通称ジャージャー橋(樋橋)を渡った対岸に『伊能忠敬記念館』があります。
以前は旧宅の敷地内に記念館があった事をダンナ・ピットが憶えていて、
スタッフにちょっと聞いてみたら、その通りだと言っていました。
こちらの資料館が所蔵する伊能忠敬関係の国宝の数は2345点!
内部の撮影は不可でしたが撮影が可能な展示もありました。

こちらは「壱岐島(長崎)の下図」
国宝です。
ちょっとボケちゃって見づらいのですが、たぶん縮尺は3万6000分の1。
※クリックで拡大。

こちらは「大洲藩領(愛媛)絵図」
こちらも国宝。
縮尺は約6000分の1の実測図です。
大洲藩の測量士が測量し同藩の絵師が描いたものと考えられているそう。
※クリックで拡大。

こちらは忠敬の最初の妻ミチが忠敬宛てに書いた手紙。
女性の筆なので仮名が多いらしいですが全然分かりません。
内容は娘イネの襦袢の襟の相談だそうです。
※クリックで拡大。

こちらは伊能家の雛人形と婚礼用の打掛。
忠敬の子孫(慶応年間)のもののようです。

こちらは“伊能家相続協議書”
天保9年(1838年)に書かれた相続に関する書状。
忠敬の孫の忠誨(ただのり)が重病になったため、急いで養子を縁組したという内容。
※クリックで拡大。

上記の書状が示す通り忠敬の孫が養子縁組をして跡取りを迎えましたが、
その後、紆余曲折あって忠敬の資料含め伊能家の管理者も変わり現在に至っているようです。
これはメインの展示にもありますが、伊能忠敬の恩師に当たる高橋至時の息子が、あのシーボルト事件に関与していたのには驚きました。
しかも、獄死した遺体の首を刎ねて斬罪とする徹底ぶり。
地図の流出というのは、それだけ国防に関わる重罪だったという事ですね。
いま同じぐらい重罪のやつがめっちゃいっぱいいる日本…。
こちらの資料館には国宝などの貴重品が多く、2ヶ月ごとに展示品を入れ替えているそうなので、何度行っても新しい展示が見られそうです。
旧宅まで行かれたら記念館にも是非寄ってみてください。
香取神宮から佐原の市街地までは約3.5km、車で10分ぐらい。
お目当てのお店は1時間ほど待ちそうだったので、
待っている間に景観エリアを散策してみました。

ちょうどひな祭りの時期だったので、川岸にひな人形が飾られていました。

こちらはその小野川沿いにある『伊能忠敬旧宅』
前に来た時は改修中で見学できなかったので行ってみました。
ワンともは初めてですが、ダンナ・ピットは子供の頃に一度来たことがあるそうです。

正門の横にあるのがかつての店舗部分です。
伊能家は醸造業などを営んでいた資産家だったそうです。

店舗部分は土蔵造り。
正門と店舗は伊能忠敬が婿に入る前からあるそうなので、
建ててから200年以上は経っているようです。
お雛様は昭和40年代頃のもので香取市内の方からの寄贈だそう。

こちらは炊事場。
なぜか御用旗と象現儀が。

書院。
画像を撮り忘れましたが、これらに土蔵を加えた部分が
国定史跡になっています。

書院の向かい側にある伊能忠敬像と「測量の日」の碑。

旧宅前の通称ジャージャー橋(樋橋)を渡った対岸に『伊能忠敬記念館』があります。
以前は旧宅の敷地内に記念館があった事をダンナ・ピットが憶えていて、
スタッフにちょっと聞いてみたら、その通りだと言っていました。
こちらの資料館が所蔵する伊能忠敬関係の国宝の数は2345点!
内部の撮影は不可でしたが撮影が可能な展示もありました。

こちらは「壱岐島(長崎)の下図」
国宝です。
ちょっとボケちゃって見づらいのですが、たぶん縮尺は3万6000分の1。
※クリックで拡大。

こちらは「大洲藩領(愛媛)絵図」
こちらも国宝。
縮尺は約6000分の1の実測図です。
大洲藩の測量士が測量し同藩の絵師が描いたものと考えられているそう。
※クリックで拡大。

こちらは忠敬の最初の妻ミチが忠敬宛てに書いた手紙。
女性の筆なので仮名が多いらしいですが全然分かりません。
内容は娘イネの襦袢の襟の相談だそうです。
※クリックで拡大。

こちらは伊能家の雛人形と婚礼用の打掛。
忠敬の子孫(慶応年間)のもののようです。

こちらは“伊能家相続協議書”
天保9年(1838年)に書かれた相続に関する書状。
忠敬の孫の忠誨(ただのり)が重病になったため、急いで養子を縁組したという内容。
※クリックで拡大。

上記の書状が示す通り忠敬の孫が養子縁組をして跡取りを迎えましたが、
その後、紆余曲折あって忠敬の資料含め伊能家の管理者も変わり現在に至っているようです。
これはメインの展示にもありますが、伊能忠敬の恩師に当たる高橋至時の息子が、あのシーボルト事件に関与していたのには驚きました。
しかも、獄死した遺体の首を刎ねて斬罪とする徹底ぶり。
地図の流出というのは、それだけ国防に関わる重罪だったという事ですね。
いま同じぐらい重罪のやつがめっちゃいっぱいいる日本…。
こちらの資料館には国宝などの貴重品が多く、2ヶ月ごとに展示品を入れ替えているそうなので、何度行っても新しい展示が見られそうです。
旧宅まで行かれたら記念館にも是非寄ってみてください。
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